「偽善者」  04−01−04
                ルカ12:1〜7

 「杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と悪意に満ちている」(11:39)と
おっしゃった主イエスは「偽善に注意しなさい」ともおっしゃいます。
 「偽善」というのは嫌な響きの言葉です。誰でも、偽善者になりたくはないと
思います。
 ただし、外側をきれいにすることが否定されているのではありません。
良い行いは止めて、心のままに強欲と悪意に満ちた事を行いなさい、と言う
のではありません。偽善と批判されようとも、なすべきことは沢山あります。
自分の行いが偽善ではないかと悩まされる方もいますが、「偽善だからしない」より、
「悩みつつも行う」ことのほうが尊いのです。

 「教会では偽善者の発生は避けられない。むしろ歓迎すべきだ」と言う人がいます。
教会に来はじめた人は、信仰を持つ前に、神さまに従う生活を真似しはじめます。
そうやって生活や行いが整えられ始めてから、信仰が成長していくことが多い
からです。
そのように外面の信仰生活を真似し始めた人は、やがて「神さまの前で生きること」を
学び始め、それによって偽善を乗り越えていきます。

 「偽善」の問題は、誰の前で生きているかということです。主は、どんなに見えない
ようにしたつもりでも、それを見抜かれる神さまを指し示されます。「神さまの前で
生きていること」を心に留めるのです。聖書では「偽善」が「見えていないこと」と
結び付けて語られることがあります。
神さまを見ないで生きているところにこそ偽善の問題があり、罪があります。

 神さまの前で生きることは、恐れ、縮こまって生きるとではありません。
小さな雀
(すずめ)よりずっと、自分に心を止めてくださっている方です。
 地獄に投げ込み滅ぼす権威をお持ちでありながら、その権威を私たち罪人の
救いのために行使される方です。

 「神があなたをお忘れになるようなことはない。だから恐れるな。」と
おっしゃる主に励まされ、神さまの前で生きるところに、健やかさや確かさが
生み出されます。